ゆっくりで確かな経過

 
 
 
 
祖母が亡くなった。
 
いま、不思議と悲しさはない。
それは、祖母との別れはいまではなく、もっと前から始まっていたからで、あるいは僕に悲しいという感情を抱く資格がないからだと思う。
 
亡くなる数年前から、祖母は認知症を患った。
 
僕は上京して以来、年に数回しか実家に帰らなかった。
ある日帰ったとき、気づけば祖母は僕のことを認識できなかった。
それがいつだったのか、いまとなっては覚えていない。
 
完全に認知症が進行してしまった祖母と初めて話したとき、祖母は僕のことが誰かわからずやや戸惑い気味だった。
怪訝な表情ですらあった。
 
その日から僕は、たまの実家帰りでも、祖母とそれ以上コミュニケーションを取ることをやめてしまった。薄情なやつだ。あんなに可愛がってもらったのに。
 
たぶん、いまにして思えば、僕にとっての祖母の死はそのときだったのではないかと思う。
でも当時の僕にとって、目の前の祖母は生きている人だったし、周りのひとにとってもそうだった。
だから僕は、気づけなかった。
だから僕は、生きているのに死んでいるかのように関わった。
そのくせ、本当に亡くなってから、自分の振る舞いを後悔をしているし、恥じている。
 
僕がもう少し賢明で、それでいて勇気があれば、祖母と話したときの居心地の悪さを乗り越えて、もっとたくさん関わることができたはずだ。
そうすれば、僕の中での祖母は、生きている人のままでいた。
 
僕の臆病な関わり方が、僕の中での祖母の死を確定させた。
 
 
人が対応できないのは、急激な変化ではない。
むしろ、恐ろしいくらいゆっくりとしていて、目に見えないわずかな変化の積み重ねだ。
 
ゆっくりだからこそ、認識ができないのだ。
 
認知症の兆候は確かにあったはずだ。
その変化をただしく感じ取れていたら、あるいはいま抱えている感情はいくばくか気持ちのよいものだったように思う。
 
人が確実に死ぬこと。そして、その変化はおそろしいほどにゆっくりであること。
自分の心の変化に気づかなくてはいけないこと。
死の瞬間に立ち会うことは難しいこと。
だとすれば、目の前の人との別れは、自分が思っているよりも、ずっと早いこと。
 
実家に向かう新幹線の中で、そんなことを思った。