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能力差と人間の価値について
嫌われたから嫌いなのか
ひどく嫌な思いをしたことがあり、僕は自動車学校があまり好きではない。
僕の態度が良くなかったせいかもしれないが、僕を担当した先生のひとりは僕に恨みがあるのではないかと信じそうになるくらい横柄な態度だった。
彼が不機嫌だったせいで、密室の車内にすごく嫌な時間が流れたことが何度かある。
『嫌な時間が流れた』のは、実技教習の中の数回しかない。だけれどそれ以来、僕は自動車学校が、もっと言えば、自動車学校の先生が嫌いになった。
もちろん、この世の全ての自動車学校の先生がみな横柄で、驕り高ぶっているとはつゆほど思わない。
そんなわけがない。が、なんとなく、そして、どうしようもなく苦手になってしまった。
僕は先生に怒られるたび、
『なぜ自動車の運転が上手いというだけでこんなにも人に気を遣わせ、偉そうにできるのだろう』
と思った。
『たかだか自動車の運転が上手いくらいで偉そうに』
とも思った。
でも、この考えはすこし変なように思う。
『たかだか自動車の運転が上手いくらいで』というけれど、僕は『(自動車じゃなければ)何か、能力に秀でることで、人に偉そうにしてもいい』と思っているのだろうか。
そうではないように思う。というか、そうであると考える自分でありたくはない。
別に自動車の運転技術に限った話ではないし、自動車の運転技術がどれほど稀有で優れた技術であっても関係ない。
何かが秀でているくらいで横柄にしていいわけではない。
しかし不思議なのは、横柄とまではいかずとも、怒鳴られながら指導されても全く不快にならなかった経験もあることだ。
問題集を作る会社で働いていたとき、新卒で怖い上司が担当になったとき、受験勉強で指導されていたとき。
共通点はなんだろうか。
それは、心の底からその人を尊敬していて、その人が真剣であったときだと思う。
尊敬されている人なら、何を言われても、どんな言い方であれ『何を言っているか』を必死に考えようとする。
そして、真剣であれば、(人格攻撃をしない意図と信じられるから)案外と気にならないし傷つかない。少なくとも、僕はそうだ。
しかし、後者の条件(真剣であるか否か)はそこまで重要ではないようにも思う。
というのも、僕はひどい言われ口調でも色々と解釈して、どんな言葉でも平気で受け取っていたからだ。
そこまで考えたとき、嫌なことに気づいた。
結局のところ、僕は自動車の先生を尊敬していなかったから自動車の先生を嫌いになった、ということだ。
ある能力に秀でたことを理由に人を馬鹿にしてはいけないのと同様に、どんな能力であっても敬意を払わない理由にはならない。そう僕は信じたい。
僕はすごく矛盾していて、だから嫌いになったのだ。
思い込みが自分を苦しめていること
大学生のときに働いていた塾の教え子といまだにつながりがある。
曰く、とても尊敬している、とのことで、稚拙な授業だったけれども評価してくれているようでとても嬉しい。
その子はいまとても悩んでいるようで、この前ひさびさ(12年ぶりくらいだ)に電話をした。
悩みの内容は明かせないけれど、話を聞く限り、『(自分の信じた尺度の)能力差が人間の価値の差と一致する』という考えがその子を苦しめているように感じた。
世の中使われる尺度はたくさんあるのに、自分の信じた尺度が使われないケースに対して、うまく状況を飲み込めていないようで、すごく、息が苦しそうだった。
加えて、能力差の評価が自分の価値評価だと信じているようで、それもつらそうで、見ていられなかった。
能力の差は決して人間の価値の差ではないし、その『能力』の尺度も世の中にはたくさんあるし、『能力』どうしの価値に差はない。そう思えたらもっと楽になるよ。
そう伝えたけど、なかなか伝わってないようだった。
一面では真実なときもあるだろうけれど、そういうことではなくて。
何て伝えたらいいんだろうな、と。そんなことを思いながら、自動車学校に通っていた自分を思い出した。