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自己肯定感という名の魔物
振る舞いの礎
圧倒的に自己肯定感が高い友人がいる。
自らの才能・価値を信じて疑わない。価値判断がはっきりしている。
発言や行動が首尾一貫していて、だけれども、他人の意見には素直だ。
堂々と行動するし、話す。聞いていて心地よい言葉の重みが彼を信頼したくなる。
彼はいろいろなことに挑戦する。
自分が何かやりたいと思った時、彼は迷わない。
『自分には難しいのではないか?』とは考えない。
困難にぶつかったとき、『諦めよう』とは挫けない。
自分を強く信じていることが、事態を好転させていく。
自己肯定感が高いことは、成長を加速させる要因であり、物事を突破させる源である。
なるほど、自己肯定感が高い方がいいように感じてくる。
似て非なるもの
もう1人、自己肯定感が高い知人がいる。
彼も同じく、自らの才能・価値を信じて疑わない。価値判断がはっきりしている。
違うのは、彼は不寛容な側面がある、ということだ。
他人の価値を受け入れられないのはいいとして、それを秘めきれずに批判的になる部分がある。
自らの考えに固執しやすく、批判や指摘を受け入れない。
相対する人や周りの環境によって、肯定感が崩れるような、内弁慶ともいうような雰囲気もある。
不得意な領域、強者に対して及び腰になり、そうでない時、他者を見下す。
自己肯定感を保つためになら、攻撃的になってもいいのだろうか。
環境によって簡単に不安定になる自己肯定感など、まやかしではないだろうか。
差異は何か
2人とも、自らの価値を強く信じている。しかし、他者への態度が違う。それに強固さも違う。
同じような『高い自己肯定感』であっても、種類が違う。ほとんど別物だ。
なぜこうしたことが起きるかというと、
- 自己肯定感を獲得してきた過程が、その性質に色濃く影響を与え、
- 一度自己肯定感を獲得すると、失うことが怖くなる
からだと思う。
例えば、
『他人を蹴落とし、成功を獲得することで賞賛を集め、自己肯定感を高めてきた人間』
がいるとする。
彼にとって、成功とはゼロサムゲームとなる。
すなわち、『蹴落とし成功を収める=失敗を味わうときは、他人を蹴落とせなかったときだ』という学習が進めば、『一度手に入れた自己肯定感を失わないために他人に対して攻撃的になる』ことは容易に想像できる。
環境や、相対する人によって、自己肯定感が上下するのも納得がいく。
自己肯定感の獲得・存在が、他者からの反応に立脚している。
他者が肯定的でなければ、自己肯定感を保つことが難しくなる。
交換による棄損
生まれ落ちて、最初の肯定は、親の愛によるものだ。
「親からの『無償の』愛」が尊いのは(実際にはグラデーションがあるんだろうけれども)『無償ではない愛』が世の中には溢れているからだと思う。
- 挨拶してて、いい子だね
- お手伝いしないと、お父さん嫌いになるよ
『xxすれば愛する』
自らの振る舞いを矯正すること(自らを自らが否定すること)を引き換えに愛を受け取れば、本当の自分と周りに見せている自分に少しずつギャップが出てくる。
いつしか内側の自分と外側の自分が全然、違ったものになってしまう。
外側の自分を、本当の自分は愛せない。でも、これも『自分』。だから、すごく辛い。
だから、偽物の自分を周りに愛してもらわなきゃいけなくなる。
周りに愛してもらおうとすると、無理をして偽物の自分を維持しなくてはいけない。
こうして、環境や他者に依存した自己肯定感に、麻薬のように浸るのではないだろうか。
これは、技術だ
自己肯定感が低くて、苦しい。苦しいから満たそうとする。でも満たされない。
本当の自分は、いつまで経ってもみんなから肯定されず、寂しそうにしている。
もっとも、自己肯定感の構成要素は、100%他者依存とくっきりと2種類に分かれているわけではないはずだ。グラデーションのようになっている人が多数派だと思う。
ある日、友人が言った言葉、好きな歌手の曲の一節、開いた本の1ページ、いろんな言葉が自らの自己肯定感を少しずつ変質させていくのだろう。
ここで終わると、救いがない。けれども、いい文献があるわけでもない。
(むしろ、あったら知りたい)
だから、ここから先は、僕の体験談を書く。
お前にしか当てははまらないだろ、みたいな経験談の押し売りは、少し嫌いだ。
でも、失ってしまった肯定感を培うことができないとしたら、あまりにも救いがない。
僕は、自己肯定感の獲得は、技術だと信じている。
これは必ず、努力で得られるものだ。
過去のこと
肯定感を獲得するステップは、3つだと思う。
- 自分を脅かす環境や人から逃げること
- 余裕が出てきたら、自分を大事にすること
- 本当になりたい自分へ、少しずつ努力すること
僕は、社会人1年目の終わりに、ものすごくショックで辛いことがあった。
というかまあ、もっといえば社会人1年目は、ずーっと、ずっと、期待に添えられなくて、自分のことを求めていないチームで、ひたすら空回りしているような感覚があった。
その集大成みたいな出来事だった。
詳細は省くが、ある日、『(お前は)いらない』と言われた。
いまでも自分の能力が高いとは思わない。
でも、そのときは輪をかけて自分がいかに無能なのか、と辛く自分に当たった。
自分が自分のことを信じられず、何も頑張れない時期があった。
返しきれない恩
まず、その場所から逃げた。
そして、自分を肯定してくれる人に声をかけてもらった。
人生で最初の上司が連れてくれた飲みの場で、僕はどれだけ救われたのか見当もつかない。
返せないくらいの恩を受けた。
すぐに第2の『自分を大事にすること』に移るべきだったが、なかなか難しかった。
その後、反動で、がむしゃらに働くことで自らを肯定しようとしたからだ。
能力を否定されたから、その底上げできれば、自分を肯定できる、というわけだ。
僕の糧になっているからその過去を否定したいわけではないが、長居しすぎた感がある。
自分を大事にする
その日から、時間が経って、自分を大事にすることを少しずつ始めた。
根本的に、自己肯定感を安定させるには、自分と向き合う必要がある。
自分がいままで社会に適合するために、捨ててきた性格や振る舞い、気持ちを取り戻して、捨てなくていい、と自分に伝えることをする必要がある。
全てにおいて、自己犠牲ではなく、自分を真に大事する必要がある。
好きなことに没頭すること
- 文章を書くことが好きだから、とにかく、文章を書くこと。
- 天気のいい日にサイクリングで、1時間くらい走らせること。
- Podcastを聴くこと。
気持ちに素直に行動すること
- 食べたいな、と思ったら、とんかつを食べること。
- ふらっと映画を観てみること。
- ひさびさに、友人に連絡してみること。
- パーカーが好きだから、パーカーをよく着ること
労り、身体を大事にすること
- サウナや銭湯に行くこと。
- フェイスケアや、シャンプーにお金をかけること。
- ジムで、鍛えること。
疲れさせるものから離れること
- 価値観のズレを感じ始め、だけどとても大好きで、とってもお世話になっている会社を辞めたこと。
- どうしても好きになれない人と、関係を断つこと
行動と人格を切り離すこと
- 『自分ではなく、自分のこの振る舞いが良くなかった』と振り返ること
- 日記を書いて、客観的にみること。
自分のありのままに従って行動し続けた。
いまでも続けていて、最後に、『本当になりたい自分へ、少しずつ努力』し始めた。
僕はいま、その真っ最中だ。
ありたい姿
理想の自分になるには、自分にとって、何が大事なものであり、何が大事でないかについて、確固たる考えを持たなくてはいけない。
自分の価値基準に基づき、自信を持って、選択する必要がある。
自分の好きなものについて好きだと堂々と話し、自分の仕事について、趣味について、人間関係について、自分以外の誰よりも、自分が腹の底から納得する必要がある。
色々な方法があるけれど、僕はいまのところ、あらゆる選択について、文章を書くことがよいと結論づけた。
僕は、僕のことが世界でいちばん大事だから『本当にありたい自分』を宣言する。
僕は、確固たる価値基準を持つ人間になりたい。
自分がいいと思うものを強く愛し、行動で示したい。
自分の価値基準は確かなものにしながらも、
無下に他人の努力や積み重ね、尊厳を否定せず、きちんと見極めたい。
受け入れられないものでも、きちんと思考して、
価値判断に照らした上で良いものに近づき、悪いものからは距離を置きたい。
他人を尊敬するけれども、崇め奉(あがめたてまつ)ったり、へりくだりたくない。
『僕は、こう思う』を確かなもののままにしていきたい。
批判よりも、提案を是としたい。
何かを作り出し、手を動かすような、実行者の側に立っていたい。
自分は大事にするけれども、それ以上に、損得を超えて、誇りを優先できる人間でありたい。
何かを生み出し、作り続け、残す人でありたい。