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凡庸な強み
環境が変わったり、それまでになかったことに挑戦するようになったりすると、壁にぶち当たる。
試行錯誤していく中で、脇道に逸れていくことがある。
特に優秀な人たちに囲まれていると、しばしば思うことがある。
『周りの人はすごい人ばかりだ、しかもみんなそれぞれに違って、それぞれに優れている』
『いったい自分はどうしたらいいのだろうか』
『何か特別に他の人よりも優れている自分の強みはないだろうか』と。
大抵こんな余計なことを考え始めているときはうまくいかないときだ。
本当にうまくいくときは大抵、脇目も振らず、
一生懸命にできることからコツコツとやっているときだ。それに限る。
しかし、それはそうとして:なかなかどうして興味が惹かれ、
度々頭を悩ませる話題であることは確かだ。
『私の強みは一体何なのだろうか?』
絶対的な強みを持つ人は限られる
大学生の頃、NPOにいたり、インターンをしたり、
サークルをしたり、バイトをしたりする中で、
周囲に自分のいいところ(強み)を何度か聞いたことがある。
ただ、聞けば聞くほど訳がわからなくなっていった。
なぜかというと、次の2つに分類できたからだ。
1つは、共通しているものの、取るに足らないような内容であること。
要は、『それって当たり前のことでしょ』と思ってしまうようなことだ。
想像していたような、スペシャリティのある強みを回答してもらえかった。
(例えば、あなたのいいところは『いい人であること』と言われたら、何も考えてないように聞こえるのではないだろうか?)
そしてもう一つのパターン。
スペシャリティの要素が増えたものの、その回答は、コミュニティによってバラバラだった。
(あるチームでは盛り上げる、ある組織では冷静だね、という様に)
考えてみれば当たり前だ。
似たコミュニティではなく、多様なコミュニティに所属すると、ルールや文化によって、若干見せる振る舞いが少しずつ違ってくる。
故に、強みとは相対的なものなのではないか、と大学生の頃は結論づけていた。
(あなたがもし平均的な人なら、賑やかなコミュニティではクールな人だし、逆なら賑やかな人ということになる。もっとも、賑やかかクールかが『強み』なのかどうかはともかくとして。)
しかし、この話はここで終わらない。
本当にそうか?
自分の強みを聞くのは、半ばお世辞を聞いているようなものだから、いい加減懲りた方がいいかもしれないな、と思いつつ、その後も何度か続けた。
そして、不思議に思ったことがある。
自分のフィードバックをすると大抵、相手のフィードバックもお願いされることが多い。
それは可能な限り真摯に伝えるようにしていて、なるべく真剣に考え、つぶさに相手を観察した末の『相手の強み』を伝えるのだが、相手のリアクションがこちらの思考量と反比例することが多いのだ。
どういうことかというと、例えば、相手の強みが3つ:Aランク、Bランク、Cランクという順にあるとしよう。
相手に伝えると、Aランクに近いものほどリアクションが薄く、Cランクに近いものほど強いリアクションになるのだ。
(Aランクの強みを伝えると『そうかな?普通だと思うよ』という薄い反応にも関わらず、
Cランクの強みは『そうなんだ!』というリアクションになることが多いのだ。)
それを何度か繰り返すうちに気づいたことがある:
非凡な強みを持つものは、その非凡さ故に、自身の非凡さに気づけないのだ。
他者にとっては、あまりにも非凡であるにも関わらず、
自分にとってはあまりにも当たり前であるが故に、
息を吸うかの如くできているが故に、
他者に指摘されても、『何を当たり前のことを?』という感覚になるのだ。
取るに足らないと感じることにこそ金脈がある
『お前ってさ、あんまり人の悪口を言わないし、一緒にいると、いいところを見つけてくれるから力が湧いてくるんだ。』
『あと、文章書くの好きだよね。書いたり話したりするの、好きだよね』
自分で言うのは少し恥ずかしさがあるが、これが最も言われた自分の強み(特徴)だった。
圧倒的に成果を出す、とか、学習能力が極めて高い、とか、冷静で的確な判断を常にする、とか、そういうのが欲しかった自分にとって、こんなことが自分の強みだと言われてもなかなか信じられなかった。
言ってくれた人に申し訳なさはありつつも、率直に言って『自分にとっては、がっかりした強み』だと感じたし、『お世辞で、誰にでも当てはまることを言ってるのではないか』と思っていた。
でも不思議と、どのコミュニティ、組織、チームにおいても言われることは共通してこれだったのだ。
強みとは『誰かに言われなくても、なぜか時間をかけて、自然と行なってしまっている行動の積み重ね』なのだ。